暖簾に宿る「はい、よろしやす。」わたりがにの人生


暖簾に宿る

「はい、よろしやす」

わたりがにと生きた男、濱田憲司の荊と光

第一章:頑固な背中と、京都の洗礼

昭和の泉佐野。宮崎の漁師の家を飛び出し、身一つでこの地に流れ着いた男がいた。私の父である。十人兄弟の末っ子。誰にも負けたくないという執念だけで、一日中、文字通り泥泥(どろどろ)になるまで働き続ける頑固でワンマンな職人だった。飲食店だけは嫌だと猛反対する妻を押し切り、昭和39年に掲げたのが「割烹松屋」の暖簾である。

若き日の私にとって、その父の背中は、圧倒的な「憧れ」だった。自分もいつか、こんな格好いい男になりたい。大学時代は一ヶ月も旅に出るような自由を謳歌していた憲司だったが、料理の道へ進むべく京都の老舗へと修行に出た時、現実に打ちのめされることになる。

そこは、全国から「意識高い系」の若者が集まる、容赦のない戦場だった。
身代わりなど、いくらでもいる世界。
「お前、ほんまに料理屋の子供か!」
魚の名前すら満足に答えられず、怒号を浴びる日々。
自分の無力さに血を吐くような悔しさを味わいながらも、
私は劣等感と対峙しながらも歯を食いしばった。

泉佐野へ戻ってからも、休みなく働く父の
猛烈なスピードについていくのがやっとだった。

ある時、一ヶ月もゴルフに出かけた父に若き憲司が不満を漏らすと、父は鋭い眼光でこう言い放った。 「文句あるんなら、お前も31日間、毎日自分で仕入れに行って、同じように仕事してみろ」 ぐうの音も出なかった。それは、言葉ではなく「命の削り方」を教える、父なりの教育だった。


第二章:平成16年、退路を断った「本気」

どんなに厨房が戦場のようにバタバタと修羅場を迎えていても、父は平然と、
決まってこう言った。 「はい、よろしやす。」
お客様の前では、どんな苦労も、どんな焦りも見せない。
それがプロの誠意だと、父の横顔が語っていた。

しかし、平成16年。その偉大な先代が、突然この世を去る。

本当の試練は、そこから始まった。
大黒柱を失った厨房で、憲司の脳裏に蘇ってきたのは、
生前の父が遺した断片的な言葉たちだった。

「天地に、お客様に良くすること。
喜んでもらうこと。最後は正直に、まじめであること」――。
一言一言の本当の意味が、自分がトップに立った瞬間、
初めて血の通った教えとして心に突き刺さった。

「ここで俺が本気にならなきゃ、松屋は終わる」
私はその年、大好きだったゴルフをきっぱりと辞めた。
甘えを捨て、退路を断ち、「わたりがにと心中する」と
腹をくくった瞬間だった。

折しも時代は、バブルが弾けた爪痕が深く残る不況の真っただ中。
「安くしなければ客が来ない」というデフレの嵐が吹き荒れ、
かつて名を馳せた近隣の古い料亭や料理屋が、
次々と暖簾を下ろしていく。
「次は、自分の番だ」 凄まじい恐怖が憲司を襲った。
しかし、彼は怯まなかった。
生き残るために、真逆の舵を切ったのだ。
大衆化に逃げるのではなく、客層を絞り、
圧倒的な強みを尖らせる。
目指すは「わたりがに日本一」。
誰もが扱いの難しさに嫌がる
「生きているわたりがに」に命を懸け、
徹底的に誰も真似できない仕事をすると誓った。


第三章:泉州の誇りを、世界へ

「落ちこぼれだったかもしれない」と笑う。
しかし、腹を決めた男の歩みは強かった。
泉佐野は、豊かな海のもの、山のものに恵まれた
素晴らしい土地だ。そして何より、
岸和田のだんじり祭りをはじめ、
泉州一帯の祭りには「わたりがに」の
食文化や歴史が、深く、熱く息づいている。
地元では「かに祭り」と呼ばれるほど、
人々の血を沸かせる特別な存在なのだ。

「この素晴らしい食文化と風習を、
絶対に次の世代へ残したい」
目は今、地元・泉佐野を、
山形の庄内(ローカルガストロノミーの聖地)のように、
日本中、いや世界中から
「これを食べるために」と人々が旅をして
訪れる地域にすることを見据えている。
官民一体となって、この街の食を活性化させていく。
その先頭に立つのは、かつて
「お前は本当に料理屋の子か」と罵られた、
あの少年だ。やると決めれば、
荊の道すらも愛おしい。
応援してくれる人々の存在が、
何よりの追い風だった。


終章:最後に笑う景色

飲食店は、過酷だ。しかし私は思う
「家族あっての飲食店です」と。
身を粉にして働き、共に荊の道を歩んで
くれた家族への感謝は、言葉に尽くせない。

私には、人生の最後に、どうしても見たい景色がある。
大袈裟かもしれないが、自分がこの世を去る時、
「良い人生だった」と心から想いたい。
そして、その視線の先にいてほしいのは、
誰よりも苦労を重ね、
壮絶な人生を生き抜いてくれた母の、
すべてから解放された満面の笑顔だ。
その隣で、無口に、しかし満足そうに頷く父の笑顔。
それを取り囲む、愛する家族や友人たちの明るい光。

「はい、よろしやす。」

今日も厨房で、憲司はその言葉を心の中で呟く。
引きつるような忙しさの向こう側に、
あの優しく、温かい両親の笑顔の景色があると信じて、
男は今日も、実直に、まじめに、
最高のわたりがにに包丁を入れ続ける。

割烹松屋  濱田憲司